1894年07月16日 日英通商航海条約と領事裁判権

領事裁判権の背景

1853年、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊4隻の前に日本はアメリカに1度目の敗戦とされてい開国を強いられ、1854年日米和親条約を結び、鎖国体制に終焉を迎えます。
そして1858年、日米修好通商条約が結ばれ、、関税自主権がなくアメリカの領事裁判権を認めた不平等条約を締結します。この不平等条約は、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも結ばれ、安政の5カ国条約となり、今後の日本の外交はこの不平等条約の回復のための外交となっていきます。

日本国民を憤慨させた事件

1868年(明治初年)、イギリス人による13未満の少女暴行事件が発生し、犯人は6カ月の禁固刑となりました。この事件は政府や当時の支配階級である士族への不満となり、西南戦争へと発展していきます。

また1886年には、イギリス貨物船ノルマントン号の座礁が起こり、イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員はボートで脱出し救助されたにもかかわらず、日本人乗客全員が救助されず死亡しましたが、船長は無罪となりました。

不平等条約の改正の動き

当時の外務大臣井上馨は、まずは外国人に気に入られるようにと欧化政策をおこない、鹿鳴館を創設します。しかし国民の反発にあい失脚します。

また諸外国に認められるために、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されます。

陸奥宗光

陸奥は20歳で海軍操練所に所属し、当時の塾長坂本竜馬に『商法のことは陸奥にまかせている』と言わせしめています。
反政府運動の当時1878年に監獄へ行きますが、1883年に出獄し、1884年にヨーロッパへわたり、イギリス議会政治を学びますが、追いつくには時間がかかることを悟ります。しかし、当時の社会情勢は、条約改正を急務としていました。
帰国後1890年に農商務大臣に就任し、1892年8月8日、臣井上馨の後を継ぎ外務大臣へと就任します。

当時は議会政治と言ってもまだまだ未熟で、諸外国との対応条約に持ち込むには時間がかかるとおもわれていました。そんな折に、ロシアの南下政策によるアジア進出がはじまります。イギリスはこれに体対抗するため函館港を解放することと引き換えに、1894年日英通商航海条約を結びます。この条約により、ついに当時の大国イギリスによる領事裁判権の撤廃に成功するのです。時のイギリス公使は青木周蔵でした。

最大の大国イギリスの領事裁判権の撤廃を機に、次々と各国の領事裁判権の撤廃に成功するのです。

日露戦争

陸奥宗光の最大の功績は、海外の領事裁判権の撤廃で間違いありません。
しかし、忘れてはいけないことは、日清戦争を行ったのもまた、陸奥宗光と川上操六(そうろく)であると言っても過言ではないことです。

タイトルとURLをコピーしました