二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日に決起された皇道派青年将校ら約1400人による日本最大のクーデーター未遂事件です。
彼はらは多くの裏切りにあい、東京陸軍軍法会議により処断されていきます。

皇道派

政治の腐敗を打破するために、真崎甚三郎率いる皇道派青年将校らは「昭和維新」を唱えて、
岡田啓介内閣総理大臣(別人を誤って殺す)、鈴木貫太郎、高橋是清等を殺害し、陸軍省及び参謀本部などを4日にわたって占拠します。

磯部浅一と真崎甚三郎

クーデターを率いた磯部浅一は、真崎甚三郎が私財をなげうってまで資金を準備するといったことや、決起後に交わした言葉から、
上層部もこのクーデターを支持しているものと信じていました。

大臣啓示

クーデター後、あたかもこれを支持するかのような大臣啓示が発せられます。
また、一旦はこのクーデター軍を正規部隊と認めることまでします。
このため、その後戒厳命令が発せられ、クーデターの鎮圧まで4日を要することになります。

奉勅命令

昭和維新を唱えた青年将校らの目的は、天皇より詔勅を得て義軍とされることを目指します。
しかし、激怒した天皇により発せられた「速やかに各所属部隊に復帰せよ」との奉勅命令により、
事態は終結に向かいます。

匂坂春平(さきさかしゅんぺい)主席検察官

事件後の陸軍軍法会議において、磯部ら青年将校は真崎ら上層部のかかわりを白日の下にさらそうとします。
検察官匂坂も真崎ら陸軍上層部を問い詰めますが、陸軍上層部は大臣啓示までもをなかったものとして、
青年将校らとの関係を否定します。

結果として、陸軍大臣寺内寿一(てらうちひさいち)らの圧力のもと、
昭和12年9月25日には真崎は無罪を言い渡されます。

この裁判は、非公開、一審制、弁護人なしのものでこの判決が確定し、多くの青年将校らが処刑さてます。

所感

多くを殺害したクーデター行為は簡単には正当化できませんが、
クーデターにいたるまでの上層部の関与、4日にわたる占拠の間の紆余曲折した大臣啓示、その後の秘密裏の陸軍裁判、
全ての過程に権力が大きく関わっている非常に複雑な事件です。
そのために若い命が無残に処刑されていくことは、彼らにとって無念だったでしょう。
その中で、私にとって異色を放つのが匂坂春平(さきさかしゅんぺい)という存在です。

当時の岡田啓介首相(義弟の松尾伝蔵が誤って殺害されて難を逃れる)の秘書官、迫水(さこみず)久常のテープが30年の時を経て公開されています。
それによると、末端の兵は単なる郊外演習と思っていたようです。

信じ難い話しですが、この事件をひた隠しにした陸軍は、この後勢力を強めて太平洋戦争に突入していくことになり、
この時の若い兵士たちは前線へと送り出されていくことになります。

歴史を理解するには知っておかなくてはならない事件であったことには間違いありません。

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