日露戦争における6万人もの死者を出した旅順攻略においてその名を世界に知られています。
軍旗事件
西南戦争の際、敗走し軍旗を奪われます。
当時の一般感覚(山形有朋でさえ)では、軍旗はそれほど尊貴なもではありませんでした。
しかし彼はこのことを生涯の恥とし、自殺まがいなことをします。
それが敗走したにもかかわらず乃木の評価をたかめてしまいます。
ドイツ留学
川上操六とともにドイツに留学します。
乃木は戦略を学ばず、制服というものに興味をもちます。
帰国後かれは、寝る時ですら制服を脱がない乃木式を確立します。
中朝事実
山鹿素行の中朝事実を読み、写本し続けます。
これは江戸時代には珍しい、漢文で書かれた唯一の神道の書であり、
宗教色のこいものです。
乃木は死の数日前に裕仁親王を含む3皇子に、
中朝事実の自らの写本を渡しています。
旅順要塞攻略
彼の2人の息子も含めた総勢6万人の死者を出す突撃を繰り返します。
近代的要塞である旅順要塞に無駄な突撃を繰り返す乃木に、天才技術将校の有坂成章らが28サンチ砲を進言します。
そして、天才であり友である児玉源太郎が現地に赴き、指揮権を譲り受けます。
これより防備の薄く、占拠すれば旅順港を見下ろしロシアの旅順艦隊を砲撃できる203高地の攻略に入ります。
旅順艦隊を守るために作られた旅順要塞は、203高地を占拠することの一点で、その存在意味を失ったのです。
水師営の会見
負けたロシアとの会談において、アメリカ撮影技師の撮影を断ります。
敵将の恥が残る写真を撮らせることは日本の武士道がゆるさないというものです。
特派員の執拗な要望に対して乃木は、
「それならば会見後、われわれがすでに友人となって同列にならんだところを一枚だけゆるそう」
というのです。
こうした考え自体が感動的なものとして、乃木の名前は世界へ電信されます。
彼により、日本人の武士道的映像が世界に印象付けられます。
乃木が日本国家に貢献した唯一の出来事でしょう。
殉死
明治天皇の大葬の日に、彼は妻の静子とともに自害します。
遺書によると、誰もが忘れている軍旗事件を悔やんだものです。
旅順攻略により、最も知名度の高い乃木のこの中世的な劇的な死は、王室・貴族の尊厳が失われた世界の現代国家へ強烈な思想的衝撃を与えます。
死の当日、彼は妻とともに一枚の写真をとらせています。
「今日の写真は自然なる姿がよかろう」
といい、乃木は新聞を読みあげています。