戦艦大和

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なぜこの巨大戦艦はつくられたのか

全長263m、46センチ砲9門。大和がいかに巨大かは、日露戦争での、日本海海戦におてバルチック艦隊を撃破した、連合艦隊旗艦・三笠が、全長131m、30センチ砲4門が主砲だったとと比較すると一目了然です。

明治38年(1905年)における日本海海戦は、まさしく戦艦と戦艦の戦いであり、この戦争を機に各国は大艦巨砲主義へと傾き、競ってより大きな砲門をもつ戦艦を建造していきます。
これは口径が40センチの場合は飛距離が約38km、46センチの場合の飛距離が約41km。
この3kmの間、一方的に攻撃ができるという単純な考えのもとにあります。

不沈艦

大和の凄さは砲門だけではありません。
防水区画が1147。注排水システムという仮に戦体が破損して傾いても、反対側から海水を注入して補正するシステム。410mmの鉄板に覆われた正に不沈艦だったのです。
これだけの攻撃力と設備を備えながら、むしろ、よく全長263mに抑えたと言われるほどでした。

火を吹けない46センチ砲

昭和17年(1942年)に連合艦隊の旗艦となった大和は、同年6月5日のミッドウェー海戦にて初めての出撃を迎えます。
しかし、この戦いは暗号が筒抜けであり、航空機による甚大な損害を被り、大和の主砲は火を吹くことなく撤退していきます。

この戦いを機に、戦艦同士の戦いを前提とした大艦巨砲主義から、航空機を運搬する母艦へと主力は移行していくのです。
大和は戦いの機もないままに、大和ホテルと呼ばれるようになります。

レイテ沖海戦

昭和19年(1944年)のアメリカのフィリピン上陸に対して、レイテ沖の海戦がおこなわれます。
大和はこの時に初めて艦隊同士の戦いを迎え、小型空母ガイビア・ベイを撃破します。
しかし、アメリカに与えた損害はわずかで、逆に連合艦隊は壊滅的な打撃を受けて引き返します。

天一号作戦

昭和19年(1944年)10月には日本海軍の航空特別攻撃隊である神風特別攻撃隊が編成されます。
昭和20年(1945年)4月1日にはアメリカの沖縄上陸が始まります。
これに対して4月5日、天一号作戦が発令されます。
「片道の燃料にて陸に乗り上げ砲台となれ」というものです。
司令官は拒否したと言いますが、
「一億特攻のさきがけとなれ」
との言葉を聞き、この作戦を受け入れたと言われています。

沈没

昭和20年(1945年)4月6日午後6時に、乗組員には特攻であると知らされます。
そして7日14時23分に大和は沈没し、約3000人もの死者をだします。
そして1945年8月15日に敗戦を迎えます。

なぜ沈没したか

410mmの鉄板に覆われ、1147もの防水区画、注排水システムを持つ大和はなぜ沈没したのでしょうか。
これだけの重装備にも関わらず、大和は目視による射撃を行います。
そのため一旦煙が上がるとその砲門は無力となり、航空機からの無数の魚雷を受けます。

アメリカ軍の魚雷は片面に集中しており、注排水システムの入水許容量を超える損害が発生し、ついに沈没するのです。
大和は横転とともに大爆発を起こします。

特攻を聞かされながら大和とともに沈んでいった者たちのことを思いやるとやり切れない思いが今でも伝わってきそうです。

既に時代的に無力なものとなりながらも、国の総力をかけて建造されたこの巨大戦艦は特攻という死滅の道をたどります。
こうした歴史から、少しでも何かを学ばなければならないと思います。

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